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エリーザベト・フェルスター=ニーチェの生涯

北川 仁美  『悪女善女伝説 2030』シリーズ

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生い立ちと家族環境

エリーザベト・フェルスター=ニーチェ(Elisabeth Förster-Nietzsche 本名テレーゼ・エリーザベト・アレクサンドラ・ニーチェ)は、1846年7月10日、プロイセン王国ザクセン州のレッツェン=バイ=リュッケン(現在のドイツ・リュッケン)で生まれた。
父カール・ルートヴィヒ・ニーチェは裕福なルター派の牧師(元教師)であり、母フランツィスカとの間にエリーザベトと兄フリードリヒ(哲学者ニーチェ)をもうけた。1849年に父は頭部外傷による脳卒中で急死し、さらにエリーザベトには2歳年下の弟ルートヴィヒ・ヨーゼフがいたが1850年に夭折している。父の死後、一家は十分な収入がなく、母フランツィスカは夫の母(エリーザベトの祖母)エルトムーテの援助を受けて子供たちを育てた。
このように幼少期のエリーザベトは敬虔なルター派の母と祖母に囲まれ、保守的で信心深い家庭環境で育ったといえる。兄フリードリヒとは年齢が近かったこともあり幼少期から大変仲が良く、父なき後の寂しさを共有し合うような強い絆で結ばれていた。1860年代、兄フリードリヒが大学進学を機に伝統的な信仰を捨てて自由思想へ傾いていくと、深い敬虔さを保っていたエリーザベトはこれに戸惑い、兄妹の間に最初の思想的齟齬が生じた。しかしそれでも当初は兄を献身的に支え、1870年前後には体調を崩しがちな兄の看病や家事管理を手伝うなど、青年期まで兄妹の親密な関係は続いていた。
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兄のニーチェを看病するエリーザベト
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結婚と思想的変質

1880年代に入る頃、エリーザベトはベルンハルト・フェルスターという人物と知り合った。フェルスターは元教師で、当時ドイツ帝国における狂信的なドイツ民族主義者・反ユダヤ主義の煽動家として知られていた。
エリーザベトは1885年5月22日、ちょうどワーグナーの誕生日にあたる日を選んでフェルスターと結婚する。この結婚に兄フリードリヒ・ニーチェは猛反対し、妹の選択に深い失望を表明した。実際、ニーチェは妹の結婚式に出席することすら拒否しており、その理由について友人宛の書簡の中で「この忌まわしき反ユダヤ主義が…私と妹との根本的決裂の原因だ」とまで述べている。
フェルスターとの婚姻を機に、エリーザベトの思想は大きく変質した。敬虔な牧師の娘であった彼女は、次第に夫の影響下で過激な民族主義と反ユダヤ主義に心酔するようになり、兄の自由思想や普遍主義からは決定的に離反していった。事実、結婚前後から兄妹の仲は急速に疎遠となり、1884年頃には「妹とは口をきかない間柄」になるほど亀裂が深まっていた。
こうしてエリーザベトは夫ベルンハルトとともに極端な民族主義的ビジョンを追求する道へ踏み出すことになる。

民族主義への傾倒と「ヌエバ・ゲルマニア」計画

狂信的な民族主義者であった夫ベルンハルト・フェルスターの主導により、エリーザベトはドイツ民族の理想郷を海外に築くという植民地計画に乗り出した。
フェルスター夫妻は「純粋なアーリア人」の共同体を欧州から遠く離れた新世界に創設すれば、ドイツ民族の優越性を示す模範となると考えたのである。
夫妻が理想の地に選んだのは南米パラグアイであった。フェルスターは現地に入植地を設ける構想を練り、エリーザベトもこれを支えて準備を進めた。1887年2月、夫妻は同志の14家族を説得してパラグアイへの移住団を組織し、ドイツを出発する。彼らは現地で入植地を「ヌエバ・ゲルマニア(新ゲルマニア)」と名付け、ドイツ人だけから成る理想郷建設に情熱を注いだ。
しかし、この植民事業はほどなく大きな困難に直面する。熱帯の土壌や気候はドイツ流の農耕に適さず、衛生環境の違いから入植者たちの間に疫病が蔓延したうえ、内陸奥地という地理条件の悪さから物資補給や人の出入りもままならなかった。計画は当初の理想に反して停滞し、植民地経営は次第に行き詰まっていった。理想郷の維持のため夫妻は多額の借金を重ねざるを得なくなり、経済的にも追い詰められていく。
ついに1889年6月3日、重圧と失意に耐えかねたベルンハルト・フェルスターは毒を仰いで自殺し、この無謀な植民地プロジェクトは暗礁に乗り上げた。エリーザベトは突然の夫の死にもめげず、数年間はパラグアイの地に踏みとどまって入植地の維持を試みた。彼女は夫の遺志を継いで「新ゲルマニア」を存続させ、自らも開拓民たちの指導者として振る舞おうとしたが、状況は好転しなかった。
植民地事業の失敗はドイツ国内でも注目を集め、詐欺的な理想郷計画として醜聞視されるに至った。エリーザベトは夫を国家的英雄に祭り上げようと試みたりもしたが、結局その努力も実らず、入植地を「ゲルマン的キリスト教の島」として再建する目論見は潰えた。こうして夫妻の夢見た民族主義的ユートピアは挫折し、エリーザベトは現実の厳しさに直面することになった。
 

1894年頃、未亡人となったエリーザベト・フェルスター=ニーチェ。夫ベルンハルトの死後、彼女は兄ニーチェの元へ戻り、その著作の管理に乗り出した。

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Elisabeth Förster-Nietzsche
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夫の死と帰国

夫ベルンハルトの自死によって未亡人となったエリーザベトは、南米で抱えた巨額の負債と理想郷崩壊の現実に直面した。彼女は1889年以降もしばらくパラグアイに留まり、夫亡き後の「新ゲルマニア」をなんとか維持しようと努めたものの、経営は好転せず植民地の土地や資産は債権者に差し押さえられていった。エリーザベト自身も入植者から資金を不正流用したのではないかと糾弾され、夫ベルンハルトは事業破産や刑事訴追の目前に自ら命を絶ったとも噂された。
彼女は夫の死因について「心労による心臓発作」であり自殺ではないと弁明し、「悪友や敵対者の陰謀が夫の心を破ったのだ」と周囲に語ったという。エリーザベトは夫の名誉回復と植民地再建を図って再起資金を募ろうとしたが、1890~1892年にかけての追加資金調達の試みは失敗に終わった。
結局1893年、彼女は4年間守り続けたパラグアイの地を後にし、債権者への支払いもままならないままドイツへ帰国する道を選んだ。帰国当時のエリーザベトは「理想郷の創始者夫人」として凱旋するどころか、植民事業を潰した「不名誉な寡婦」と見做されており、失意と経済的困窮の中で祖国に戻った。
しかし彼女には、ドイツ国内にひとつ心の拠り所が残されていた。それは実兄フリードリヒ・ニーチェの存在である。1893年にドイツへ戻ったエリーザベトを待っていたのは、既に精神を病み寝たきりとなっていた兄フリードリヒの姿であった。同時に、兄の哲学的著作は1880年代末頃から欧州各国で注目を集め始めており、ニーチェの名声は高まりつつある状況でもあった。
エリーザベトはこの状況に活路を見出す。彼女は狂気に陥った兄の後見人となり、その著作を編纂・出版する仕事に自ら乗り出す決意を固めたのである。1894年にはワイマールに「ニーチェ文庫(ニーチェ・アーカイブ)」を正式に設立し、兄の蔵書や原稿、書簡類を収集・管理する拠点とした。こうしてエリーザベトは、兄フリードリヒ・ニーチェの妹という自身の立場を前面に出しつつ、崩壊した植民地事業に代わる新たな使命と収入源を手に入れることになった。それはすなわち、偉大な哲学者となりつつあった兄の思想を世に広め、自らはその守護者・編纂者として名を成す道であった。

ニーチェ文庫の設立と編集行為

ニーチェ文庫(アーカイブ)を創設したエリーザベト・フェルスター=ニーチェは、兄フリードリヒ・ニーチェの事実上唯一の文学的遺産管理者となった。1889年の兄の精神崩壊以降、エリーザベトは兄の原稿や書簡をすべて掌握し、1900年に兄が没するとその著作権も正式に継承した。彼女は兄の著作の出版・編集において主導権を握り、外部の学者や旧友であっても文庫の所蔵資料に容易にはアクセスさせなかったという。それどころか、エリーザベト自身が編集者として兄の文章に手を加え、場合によってはニーチェの草稿を恣意的に再構成・改変することさえ行った。
教育水準も高くなかった彼女による独善的な編集は、必然的にニーチェ本来の思想の一部歪曲をもたらしたとされる。 エリーザベトの編集行為の中でも特に物議を醸したのは、兄の未公開のノート断章類を集めて『権力への意志(Der Wille zur Macht)』と題する書物に仕立てたことである。この著作はもともとニーチェ自身が刊行を予定していたものではなく、彼の死後にエリーザベトが「ニーチェの思想の集大成」として独自に構成した編集本だった。
彼女はまず兄の伝記的著作集(1895–1904年刊行)の中で『権力への意志』の名を掲げて遺稿を紹介し、続いて1901年には単巻版を、さらに1906年には内容を全面的に組み替えた2巻版を刊行した。この2巻版『権力への意志』は当時「ニーチェの最高傑作」と見なされるほど広範に読まれ、ニーチェ思想受容の方向性に大きな影響を与えた。
しかしその一方で、この書物はニーチェ本来の思想を著しく誤解させる内容を含んでいたため、後の研究者から強い批判を招くことになる。編集者エリーザベトは兄の遺した断片を自らの考えに沿う形で分類・配列し直し、ナショナリズムや軍国主義的要素を強調するようなまとめ方をしていたのである。実際、エリーザベトによる版ではニーチェの文脈から外れた断章の組み合わせや、表現の改変が散見され、彼女が好まない箇所(例えば兄がキリスト教や反ユダヤ主義者を痛烈に批判するような節)は意図的に公開を遅らせたり省略したとも指摘されている。
例えば、ニーチェ自身が1888年に脱稿していた自伝的著作『Ecce Homo』は、彼の狂気や傲岸不遜な側面が露呈する内容だったためか、エリーザベトは兄の死後もしばらく出版を渋り、最終的に1908年になるまで世に出さなかった。このように彼女は兄の思想イメージを自らの理想に沿うよう管理し、必要とあらば公開作品さえコントロールしたのである。
エリーザベトの編纂したニーチェ全集や伝記は、兄の思想と人柄を彼女自身の国家主義的世界観に沿って描き出そうとする傾向が顕著だった。彼女の手になる版では、ニーチェの思想はしばしばドイツ民族の優越や権力志向と結び付けられ、結果としてニーチェは20世紀前半の極右思想(ファシズムやナチズム)の先駆的哲人であるかのようなイメージを帯びることになった。このプロパガンダ的傾向は当時一定の支持を得て、エリーザベト本人もそうした解釈を積極的に鼓吹した。彼女は兄の書簡を改竄して虚偽のエピソードを作り上げることすら辞さず、調査により判明しただけでも約30通もの手紙が彼女の手で捏造・書き換えられていた。
こうした歪曲行為によって広まった誤ったニーチェ像は、「ニーチェ=過激な国家主義者・反民主主義者」といったレッテルを生み、後続の政治運動によるニーチェの利用を容易にしてしまったと指摘されている。エリーザベト・フェルスター=ニーチェは兄の思想的遺産を私物化し、それを当時台頭しつつあった右翼民族主義運動の文脈に接続することで、自らの名声と影響力を高めることに成功したのである。
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ニーチェ文庫設立頃のエリーザベト
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ナチス政権との接点

1920年代末から1930年代にかけて、エリーザベト・フェルスター=ニーチェはドイツ国内の極右勢力に急接近していった。彼女は1930年には既にアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)を公然と支持する立場をとっており、ワイマール共和国期の国家人民党など民族主義派の人脈とも深く関わっていたとされる。

 

1933年にヒトラー政権が成立すると、エリーザベトの運営するニーチェ文庫もナチス政府から経済的・制度的援助を受けるようになった。ナチ党当局はニーチェ文庫に資金提供するとともに、その活動を宣伝面で支援し、ニーチェの名声をナチス・イデオロギーの鼓吹に利用し始めた。エリーザベト自身も兄の威光が新政権の思想宣伝に役立つことを理解しており、ナチ党によるニーチェ思想の政治利用を積極的に後押しした。

 

彼女の編纂したニーチェ像は既に民族主義的色彩を帯びていたため、ナチ党はそれを都合よく引用し「ニーチェはドイツ精神の先駆者である」といった宣伝に用いた。エリーザベトは兄の名誉と引き換えに自らの政治的地位を高める道を選び、ヒトラーからも「偉大な哲人ニーチェの姉」として遇されるようになる。 1934年10月、エリーザベト・フェルスター=ニーチェとアドルフ・ヒトラーの劇的な対面が実現した。ヒトラーはこの年、ワイマールのニーチェ文庫を表敬訪問し、当時88歳のエリーザベトと言葉を交わしている。この際、エリーザベトはヒトラーに兄フリードリヒ・ニーチェ愛用の散歩用ステッキを記念品として手渡したと伝えられる。ヒトラー自身もニーチェの大理石胸像の前で恭しく写真撮影に応じるなど、この面会はナチ宣伝省によって大々的に報じられた。

 

ヒトラーは哲学者ニーチェを「ドイツ精神の先導者」として尊崇する旨を語り、エリーザベトもその言葉に満足げであったという。こうした出来事は、ナチス政権とエリーザベトとの蜜月関係を象徴するエピソードとなった。エリーザベトは高齢になってなお政治的野心を失わず、ナチ党政権下で自らの役割が頂点に達したことを実感していたに違いない。

 

1935年11月、エリーザベト・フェルスター=ニーチェは89歳で死去した。彼女の葬儀はナチ党政権によって国威発揚の場として演出され、実際に葬儀にはアドルフ・ヒトラー自身と複数のナチ党高官が参列して故人に最後の敬意を表した。哲学者ニーチェの妹という一女性の葬儀に現職の国家指導者が臨席するという異例の出来事は、エリーザベトがその晩年いかにナチス政権と密接に協力していたかを物語っている。

 

エリーザベトの没後、ニーチェ文庫はナチ政府の庇護下でさらに数年存続したが、第二次世界大戦の敗戦により彼女の築いたニーチェ像も見直しを迫られることになった。戦後になってから学者たちがニーチェの原資料を再検証した結果、エリーザベトによる多くの改竄や誤った編集が明らかにされ、ニーチェ本来のテキストの復元作業が進められた。エリーザベト・フェルスター=ニーチェは、自らの政治的信念のもとに兄の思想を編纂し利用することで生涯を送ったが、その功罪は彼女の死後に厳しく問われることになったと言えるだろう。





参考文献

・Elisabeth Förster-Nietzsche - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_F%C3%B6rster-Nietzsche
・Nietzsche Is Dead | National Endowment for the Humanities
https://www.neh.gov/humanities/2012/julyaugust/feature/nietzsche-dead
・Elisabeth・Förster-Nietzsche | Philosopher, Sister, Writer | Britannica
https://www.britannica.com/biography/Elisabeth-Forster-Nietzsche
・One hundred years since the death of Friedrich Nietzsche: a review of his ideas and influence—Part 2 - World Socialist Web Site
https://www.wsws.org/en/articles/2000/10/niet-o21.html
・"Elisabeth Förster-Nietzsche, 1846-1935"
https://scholarsarchive.byu.edu/sophsupp_gallery/53/

 

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