KRI Column · 北川総合研究所

Aging and the Philosophy of Decline

老いと衰えの哲学

エイジングにおけるアモール・ファティ

 

北川 仁美

Essay

父性で育て、母性でケアをする

私はこれまで、「どう死にたいか」から逆算する生き方や、弱さを含めた自己受容について考えてきた。また、子どもが自立していくために必要な父性愛についても、自分なりに言葉にしてきた。では、人が肉体的に老い、能力が衰え、やがて他者の支えを必要とする段階に入ったとき、この思想はどのように機能するのだろうか。この問いは、ずっと私の中に残っていた。子どもを育てることを仕事とする保育士が「老い」を語るのは門外漢ともいえる。しかし父性と母性の調和を提唱してきた身として、父性母性のバランスは世代によってバランスが変化するものであることを言いたいがために、論考として私の「老い」に対する考えをここに残すことに決めた。

人は若い頃、「できるようになること」を通して成長を考えやすい。歩けるようになる、働けるようになる、稼げるようになる、責任を負えるようになる。社会もまた、その方向の成長を高く評価する。自立、達成、拡大、獲得。人生前半は、たしかにそうした上り坂として捉えやすい。

しかし、人間の一生はそこでは終わらない。ある時期を過ぎると、今度はできていたことができなくなっていく。体力が落ちる。記憶が曖昧になる。判断が鈍る。思うように動けなくなる。若い頃には当然のようにできていたことが、少しずつ難しくなっていく。そのとき人は、自分の価値までも失っていくような感覚に襲われやすい。現代社会は「できること」で人を測る傾向が強いため、老いはしばしば静かな敗北のように感じられてしまう。

老いとは、人生の後半にしか学べない成熟の局面なのではないか。

だが、本当にそうだろうか。老いとは、ただの敗北なのだろうか。私はそうは思わない。むしろ老いとは、人生の後半にしか学べない成熟の局面なのではないかと思う。若い頃に学ぶのは、自分の足で立つことである。では老いてから学ぶべきことは何か。それは、衰えていく自分を否定せず、支えられながらなお自分であり続けることではないだろうか。

ここで大切になるのが、父性と母性のバランスである。

Paternal · 父性
自立を促す力

境界を示し、役割を与え、現実に向き合わせ、ときに手放す愛。「自分でできるようになる方向」へ相手を信じて送り出す。

Maternal · 母性
存在を受け入れる力

うまくできるかどうかとは別に、そこにいるという事実を肯定し、包み、守り、安心を与える。傷ついたとき人を生の側へ戻す。

子どもの成長には、母性も父性も必要である。ただ、比重としては父性がやや強く働いたほうがよい場面が多い。なぜなら子どもは、依存から自立へ向かう存在だからである。もちろん幼少期には十分な母性的受容が土台として必要だが、それだけでは自立には至らない。どこかで「自分でやってみる」方向へ背中を押される必要がある。

では、高齢者との関わりはどうだろうか。ここでは逆に、母性の比重を高めていく必要があるのではないかと思う。老いとは、獲得していく時期ではなく、手放していく時期だからである。役割、能力、体力、社会的立場、時には記憶や言葉さえ、少しずつ自分の手元から離れていく。そのとき必要なのは、「まだできるだろう」「甘えるな」「迷惑をかけるな」という父性過剰の論理ではない。まず必要なのは、衰えた現実を責めず、その人の不安や喪失感を受けとめる母性的なまなざしである。

しかし、ここで母性だけに傾きすぎてもいけない。老いにおいて母性が重要だからといって、父性をゼロにしてしまえば、今度はその人の主体性や尊厳が失われてしまうからである。何でも先回りしてやってあげる。危ないからと選択の余地を奪う。かわいそうな存在として扱う。これは優しさの形をしていても、相手を一人の人間として見ていない危険がある。母性の暴走は、保護の名のもとに尊厳を奪う。

 
— 支えることと、奪わないこと —
 

老いに必要なのは、母性を厚くしながら、父性によって尊厳を守るという関わり方である。支えることと、奪わないこと。その両立が求められる。

このとき、自立の意味も見直される。自立とは、誰の助けも借りずに生きることではない。誤解しやすいが、本当の自立とは、必要な支えを受けながらも、自分の人生を自分のものとして引き受けることである。助けを受けることは未熟さではない。人生の後半にしか学べない成熟でもある。そこに気づけるかどうかで、老いの意味は大きく変わる。

老いとは、できなくなることそのものよりも、「できなくなる自分」とどう関係を結び直すかという課題である。そしてそれは、周囲との関係性の再設計でもある。若い頃と同じ役割は果たせなくても、なおその人はその人である。できることが減っても、存在の価値まで減るわけではない。ここを見失わないために、母性は必要である。そして、残された選択や意志や役割を小さくても守るために、父性も必要である。

そう考えると、老いとは敗北ではない。人生の後半における、もう一つの成熟である。若い頃に学ぶのが「立つ力」なら、老いてから学ぶのは「支えられながら生きる力」なのだと思う。そしてその両方を肯定できてこそ、人間の一生は初めて一つの思想として閉じる。

Amor Fati — 運命愛

ニーチェの言うアモール・ファティ、運命愛とは、順調な時期だけを愛することではない。衰え、喪失し、思うようにならなくなっていく自分をも含めて、それでもなお自分の人生を引き受けること。その勇気こそが、人生の最終章における超人性なのである。強くあり続けることだけが強さではない。弱っていく自分を肯定することもまた、深い強さといえる。

父性で育て、母性でケアをする。けれども本当は、この二つは人生のどの段階にも必要であり、ただその配分が変わっていくのだろう。幼い者には父性をやや厚くして未来へ送り出し、老いた者には母性をやや厚くして安心を渡す。それでも、子どもにも母性は必要であり、高齢者にも父性は必要である。人は最後まで、守られるだけの存在でも、鍛えられるだけの存在でもないからだ。

人生前半は、「自立する力」を育てる季節である。人生後半は、「衰える自分を肯定する力」を育てる季節である。どちらも人間の成熟であり、どちらも尊い。老いとは、失うことではない。支えられながらなお自分であり続ける時期なのだ。

 
北川 仁美
北川総合研究所(KRI)