現代陰徳論——相手を軽くしてあげる技術としての継承

Kitagawa Institute of Research · Essay

現代陰徳論

——相手を軽くしてあげる技術としての継承

北川総合研究所 ライブラリー 著者:北川 仁美
 
 

陰徳という言葉には、独特の美しさがあります。
人に知られないところで善をなすこと。見返りを求めず、誇らず、静かに誰かのためになることをすること。そこには、昔から日本人が大切にしてきた慎みや品格が宿っています。私はその尊さを、今でも十分に肯定したいと思っています。

ただ一方で、現代において「陰徳」という言葉は、どこか遠く感じられることもあります。少し道徳的に響きすぎたり、人格者の高い境地のように見えたり、あるいは寄付や施しのような、特別な善行を連想させたりもするからです。もちろん、それらも陰徳の一部ではあるでしょう。しかし、もし陰徳がそうした立派な行為にのみ結びつけられてしまうなら、多くの人にとってそれは「尊いが、自分には縁遠いもの」になってしまいます。

けれど本来、陰徳とはもっと生活の中にあるものではないでしょうか。お金がある人だけができることでもなければ、徳の高い人だけが到達できる境地でもない。名もない日常の中で、誰かの負担をほんの少し軽くする。その静かな実践の中にこそ、陰徳の本質は受け継がれていくのではないか。私はそんなふうに考えています。

そこで私は、これからの時代の陰徳を、「相手を軽くしてあげる技術」として捉え直してみたいのです。

「徳」から「技術」へ——万人に開かれた陰徳

ここであえて「技術」という言葉を使いたいのには理由があります。徳という言葉で語ると、どうしてもそれは人格の高さの問題になりやすい。もともとできる人とできない人がいて、立派な人だけが実践できるもののように見えてしまう。しかし技術であるならば、話は違ってきます。技術は、誰もが意識し、学び、少しずつ身につけることができる。上手い下手はあっても、万人に開かれている。私は陰徳を、そういうかたちで継承していくべき時代に入っているのではないかと思うのです。

与えることの落とし穴

では、「相手を軽くしてあげる」とはどういうことでしょうか。

世の中では、愛や善意はしばしば「与えるもの」として語られます。励ましを与える。助言を与える。支援を与える。安心を与える。それらはどれも尊いものですし、実際に人を救うことも多くあります。しかし、現実の人間は、たいてい何かをすでに背負っています。不安、焦り、恥、孤独、説明しなければならないしんどさ、期待に応えなければならない圧力、間違えてはいけないという緊張。困っている人ほど、すでに多くのものを抱えていることが少なくありません。

そうした人に対して、こちらが善意でさらに何かを足してしまうと、それがかえって重くなることがあります。励ましが圧力になる。助言が追い打ちになる。親切が「申し訳なさ」を生む。正しさが、その場では残酷になる。善意そのものは本物でも、結果として相手を軽くできていないことがあるのです。

だから、これからの時代に大切なのは、与える愛だけではない。私はそこに、「引いてあげる愛」という視点が必要だと思っています。

引いてあげる愛——引き算としての善意

相手を軽くするとは、何か特別なものを与えることではありません。
その人の上に乗っている余分な重さを、少し引いてあげることです。

不安を少し引く。

恥を少し引く。

焦りを少し引く。

説明しなければならない負担を少し引く。

選ばなければならない負担を少し引く。

「ちゃんとしなければならない」という圧を少し引く。

それは大げさな救済ではありません。相手の人生を背負うことでもありません。ただ、その人を重くしているもののうち、自分が引ける分だけを静かに引いてあげる。その小さな引き算の中に、現代における陰徳の姿があるのではないかと思うのです。

そして、ここで重要なのは、これは善意だけではできないということです。
だから私はこれを「技術」と呼びたいのです。

見ることから始まる技術

何を与えるかは、こちらの手持ちで決めることができます。けれど、何を引けば相手が少し楽になるのかは、相手のことが見えていなければわかりません。つまり、引いてあげる愛は、相手に対する深い関心がなければ発動できないのです。

この人はいま何に疲れているのか。

どこでつまずいているのか。

何を言われると余計に苦しくなるのか。

何を減らせば、少し呼吸がしやすくなるのか。

それを見ようとする姿勢がなければ、引き算はできません。
ここに私は、これからの時代のやさしさの本質があるように思います。

鈍感力ではなく、繊細さを

一時期、「鈍感力」という言葉がもてはやされたことがありました。それはそれで、消耗しすぎないための知恵だったのだと思います。しかしこれからの時代により必要になるのは、鈍さではなく、繊細さではないでしょうか。ただしそれは、神経質さや過剰反応とは違います。相手に飲み込まれず、過敏にもならず、それでも相手の負担の正体を見落とさない、落ち着いた観察力としての繊細さです。

そして、その繊細さが向かう先は、足し算ではなく引き算です。
何をしてあげるかではなく、何を減らしてあげるとよいか。
何を言うかではなく、何を言わないほうがよいか。
何を背負ってあげるかではなく、何を背負わせないようにできるか。

この発想の転換は、これからますます大切になるはずです。情報が多すぎる時代、関係が濃すぎる時代、善意すら押しつけになりうる時代だからこそ、人を軽くする力が問われる。与える能力よりも、引く能力が貴重になる。私はそう感じています。

相手を重くしない愛の形

思えば、愛にはいろいろなかたちがあります。包む愛もあれば、守る愛もある。励ます愛もあれば、支える愛もある。そのどれも否定されるべきではありません。ただ、これからの時代にはもう一つ、よく見つめ直されるべき愛がある。それが、相手を重くしない愛、引いてあげる愛です。

それは、相手を囲い込む愛ではありません。
支配する愛でもありません。
自己犠牲を美化する愛でもありません。

むしろ、相手の尊厳を守りながら、その人の上にある余分な重みを少し減らす愛です。大きな善をなしたとは誰にも知られなくていい。ただ、あのとき少し楽だった、少し呼吸がしやすかった、少し恥をかかずにすんだ。そうした小さな軽量化の積み重ねの中で、人は案外救われているのではないでしょうか。

静かな技術の継承へ

陰徳の尊さは、これからも変わらないと思います。
しかし、その継承のしかたは、時代とともに変わってよい。いや、変わるべきなのだと思います。

これからの陰徳は、特別な善行としてではなく、日常の中で相手を少し軽くする技術として受け継がれていくべきではないか。誰もが少しずつ学び、少しずつ磨き、少しずつ実践できるものとして。徳の高い人だけのものではなく、関心をもち、観察し、引き算を覚えようとするすべての人に開かれたものとして。

そうした静かな技術の継承こそが、現代における陰徳の新しいかたちなのだと、私は考えています。

 
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