その子は、最初から孤独ではなかった。
むしろ逆だった。 あまりにも多くの愛に、 あまりにも完全に、 すき間なく――囲まれていた。
竹を割った老人は言った。 「これは授かりものだ」と。
妻は黙ってうなずき、 何も疑わず、 その小さな命を胸に抱いた。
誰も疑わなかった。 疑う余地など、最初からなかった。
その子は美しく育った。 賢く、穏やかで、 言葉を選び、空気を読み、 誰も傷つけない目をしていた。
周囲は口をそろえて言った。
「なんていい子なんだろう」 「手がかからない」 「ちゃんと分かっている」
――それが、最初の違和感だった。
この子は、泣かなかった。 欲しがらなかった。 わがままを言わなかった。
代わりに、周囲が望む顔を、先回りして差し出した。
父が喜ぶ顔。 母が安心する態度。 村の人が感心する振る舞い。
それらを まるで空気のように吸い込み、 まるで呼吸のように再現した。
誰も気づかなかった。
それが 「理解」ではなく、 「適応」だったことに。
成長するにつれ、 その子の周囲はさらに厚く、 さらに柔らかく、 さらに完璧になっていった。
欲しいものは、頼む前に届いた。 危険は、近づく前に排除された。 悲しみは、感じる前に慰められた。
――感じる前に。
ここが、決定的だった。
彼女は、 喜びを「感じる」前に褒められ、 悲しみを「知る」前に守られ、 怒りを「芽吹く」前に諭された。
その結果、 心は傷つかなかったが、 同時に――育たなかった。
やがて、求婚者たちが現れる。
彼らは皆、 「条件」を持ってきた。
財力、名声、地位、誠実さ。 それぞれが、 自分の価値を証明しようとした。
彼女は静かに聞き、 微笑み、 丁寧に課題を与えた。
無理難題。 誰も成し得ない試練。
彼女は冷酷だったのか?
いいえ。 むしろ、正確だった。
彼女は「関係」を知らなかった。
だから、 条件でしか人を測れなかった。
心を開く方法を、 一度も練習したことがなかったから。
月を見上げる夜が増えた。
理由は分からない。 ただ、胸の奥がざわつく。
「帰らなければならない」
その言葉だけが、 意味を持たずに浮かび上がる。
月とは何か。 帰るとはどこか。
それを誰も教えていない。
なぜなら、 彼女はずっと 「ここにいること」が前提だったから。
別れの夜。
人々は泣いた。 父は嘆き、母は崩れ落ちた。
彼女は、 初めて――迷った。
胸が痛んだ。 言葉にならない重さがあった。
それは、 初めて「感じた」感情だった。
そして同時に、 それが最後の感情になることを どこかで理解していた。
天の衣がかけられる。
それは、 苦しみを消す衣。 執着を消す衣。 記憶を消す衣。
彼女は、ほんの一瞬だけ、 その手を止めた。
もし、 この衣を拒んだら――?
もし、 不完全なまま、 ここに残ったら――?
だが、 その選択肢を選ぶための 「筋力」が、彼女にはなかった。
なぜなら、 一度も 自分で転んだことがなかったから。
彼女は月へ帰った。
完璧な世界へ。 矛盾のない場所へ。 傷つかない領域へ。
そこでは、 悲しみも、喜びも、 同じ明るさで均されている。
安全だ。 正しい。 清潔だ。
――そして、生きてはいない。
地上には、 衣だけが残った。
人々はそれを見上げ、 「美しい物語だった」と語る。
だが、 この話の本当の怖さは、 そこにはない。
怖いのは、
彼女が「悪い育てられ方」を
していないことだ。
彼女が「悪い育てられ方」を
していないことだ。
むしろ、 理想的だった。
囲まれ、 守られ、 期待に応え、 一度も問題を起こさなかった。
それでも―― 彼女は、 自分の人生を 生きることができなかった。
完璧に囲まれた子は、 不幸にはならない。
ただ、ここに残れない。
それが、 かぐや姫の物語。
そしてこれは、 遠い昔話ではない。