【なるなる人物ライブラリー】②

 

カーネル・サンダース:失敗を乗り越えたフライドチキン王の波乱万丈ストーリー

ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者として知られるカーネル・ハーランド・サンダース。白いスーツに黒いリボンタイ、そして温和な笑顔の「カーネルおじさん」は、今や世界中で親しまれるアイコンです。
しかし、その穏やかな微笑みの裏側には、想像を絶するほどの波乱と、幾度ものどん底がありました。サンダースが真の成功を手にしたのは、実に65歳を過ぎてからのこと。どのような年齢であっても志を捨てなければ道は開けるということを、彼はその生涯をもって証明しています。

1.過酷な幼少期と、定まらない足跡

若き日の苦難と鉄道のイメージ

1890年、アメリカ・インディアナ州。ハーランド・サンダースの苦難は、わずか5歳の時に始まりました。大黒柱である父親を突然亡くし、母親は家計を支えるために外へ働きに出るようになります。幼いサンダースに課せられたのは、働き詰めの母に代わって、自分よりさらに幼い弟妹の世話をすること、そして家族の食事を作ることでした。

この「5歳からの台所修行」が、後に世界を席巻する料理の基礎を形作ることになりますが、当時の彼にとってそれは生きるための必死の労働でした。13歳で中学を中退すると、農場での住み込み労働を皮切りに、一家を支えるための放浪の日々が始まります。

16歳で年齢を偽って陸軍に志願しキューバへ渡るも、数ヶ月で除隊。その後は、鉄道の労務員、機関車の火夫(石炭をくべる仕事)、路面電車の車掌、農場労働者と、文字通り職を転々としました。しかし、彼はどこへ行っても長続きしませんでした。生来の正義感の強さと頑固さ、そして激しい気性が災いし、同僚や上司と衝突しては解雇されるというパターンを繰り返していたのです。

2.法曹界への挑戦と、あまりに痛恨な挫折

法廷での挫折を象徴するイメージ

若き日のサンダースは、決して向上心を失っていたわけではありません。鉄道員として働く傍ら、彼は通信教育で法律を必死に学び、ついにインディアナ州で弁護士の資格を取得します。肉体労働の世界から抜け出し、知的職業である法曹界に足を踏み入れた瞬間、彼はようやく人生の「正解」を見つけたかのように見えました。

アーカンソー州リトルロックで司法裁判所の代理人として活動を始めたサンダース。しかし、ここでも彼の「短気」という弱点が牙を剥きます。ある裁判の最中、意見の相違からなんと依頼人(自分のクライアント)と法廷内で乱闘騒ぎを起こしてしまったのです。

神聖な法廷での暴力沙汰。この事件によって彼の評判は失墜し、弁護士としてのキャリアは完全に絶たれました。自らの努力で掴み取ったはずの輝かしい未来を、自らの激しい気性で叩き壊してしまったのです。この挫折は、後のサンダースの人生に深い影を落とし、彼に「自制心」の重要性を痛烈に刻み込みました。

3.三十代の迷走、そして「大佐」の称号へ

サンダース・カフェとコービンの街並みイメージ

弁護士の道を閉ざされた後は、さらに混迷を極めます。保険の販売員になれば上司と喧嘩してクビになり、オハイオ川のフェリー事業で成功して手にした大金も、アセチレン・ランプの製造事業に投じれば、普及し始めた電気照明の波に飲まれて一瞬で消え去りました。

40歳で経営を始めたガソリンスタンドも、世界恐慌の直撃を受けて閉鎖。何をやっても裏目に出る。そんな彼にようやく転機が訪れたのは、1930年、ケンタッキー州コービンでのことでした。

シェル石油のスタンド経営を任された彼は、来店する長距離トラックの運転手たちのために、自宅の食卓を店に持ち込み、手料理を提供し始めました。これが「サンダース・カフェ」の始まりです。彼が作る田舎風のハムやステーキ、そしてフライドチキンは瞬く間に評判となりました。1935年には、その料理を通じた地域貢献が認められ、州知事から名誉称号「ケンタッキー大佐(カーネル)」を授与されます。私たちが知る「カーネル・サンダース」の誕生でした。

ここで彼は、生涯の宝となる二つの武器を手に入れます。一つは、新発明の圧力釜を改造した「高速調理法」。そしてもう一つは、11種類のハーブとスパイスを組み合わせた「秘伝のレシピ」です。

4.65歳、全財産105ドルからの「再発明」

全米を巡るフランチャイズ営業のイメージ

絶頂期に見えたサンダースを、再び悲劇が襲います。店に併設したモーテルが火災で全焼。さらに追い打ちをかけたのが、時代の変化でした。新しい高速道路が開通し、店の前の交通量が激減したのです。

1955年、65歳になったサンダースに残されたのは、店を売却して借金を返した後のわずかな現金と、月々105ドルの社会保障年金だけでした。普通の人ならここで「不遇な人生」を嘆き、隠居を選ぶでしょう。

しかし、彼は違いました。「自分のチキンは、まだ世界を喜ばせることができる」。彼は圧力釜とスパイスを愛車に積み込み、全米のレストランを回るフランチャイズ営業の旅に出たのです。

レストランの厨房を借りてチキンを揚げ、経営者に試食させる。断られた回数は、実に1,009回にのぼると言われています。車の後部座席で寝泊まりし、ガソリン代にも事欠く日々。しかし、60代後半の老紳士が放つ圧倒的な情熱は、やがて一人の経営者の心を動かし、そこから世界最大のフランチャイズ網が広がっていくことになります。

5.「生きたロゴ」としての誇りと晩年

白いスーツに身を包んだ晩年のサンダース

73歳で事業を200万ドルで売却した後も、サンダースは立ち止まりませんでした。彼は「KFCの顔」として白いスーツを身にまとい、亡くなる直前まで年間30万キロ以上を旅して店舗を指導し続けました。

晩年の彼は、単なる広告塔ではありませんでした。品質が落ちれば本社の幹部であろうと「こんなものは壁紙のノリだ!」と一喝し、味への妥協を一切許さない「頑固な料理人」であり続けました。彼が愛したのはお金ではなく、自分のレシピが正しく調理され、客が喜ぶ瞬間そのものだったのです。1980年、90歳でこの世を去るまで、彼は現役であり続けました。