[北川仁美人間関係論②]
悪縁を断てる愛ある人に捧ぐ
― 人間関係は、つなぐものではなく整えるもの ―
第一章
関係を切れない人たちへ
人間関係を「切る」ことに、どこか後ろめたさを感じてしまう人は多い。連絡を返さなくなっただけで、距離を置こうとしただけで、「冷たい人間になってしまったのではないか」と自分を責めてしまう。
世の中には、「人とのつながりは多いほどいい」「縁は大切にしなさい」という言葉が、あまりにも自然にあふれている。それ自体は、たしかに間違いではない。人は一人では生きられないし、誰かとの関係の中でしか育たないものもある。
けれど――それでも、どこかで違和感を覚えたことはないだろうか。会ったあと、なぜか疲れている自分。楽しいはずの関係なのに、帰り道でどっと気力が抜けている感覚。「今日は楽しかったよね」と言いながら、心のどこかで「やっと終わった」と思ってしまう自分。
その違和感に、私たちはあまり耳を傾けてこなかった。なぜなら、関係に違和感を覚えること自体が「自分の心が狭いのではないか」「相手に失礼なのではないか」という罪悪感につながってしまうからだ。
優しい人ほど、ここで立ち止まってしまう。我慢できるなら、我慢しよう。合わせられるなら、合わせよう。自分さえ耐えれば、関係は続く。そうやって、少しずつ自分を小さくしながら、関係を守ろうとしてきた人は多い。
けれど、ここで一度、立ち止まって考えてみたい。その「関係を続ける努力」は、本当に関係を大切にしていることなのだろうか。あるいは、壊れかけている関係を、無理に延命させているだけではないだろうか。
本来、関係とは、どちらかが一方的に消耗するものではない。一緒にいることで、少なくとも「呼吸が楽になる」ものであるはずだ。
もちろん、人間関係に摩擦はつきものだ。意見が違うことも、すれ違うこともある。それでも、関係の中に「安心」があるなら、人はまた呼吸を取り戻せる。
問題は、摩擦ではなく、歪みが常態化している関係だ。
会うたびに、説明しなくていいはずの自分を説明している。沈黙が安らぎではなく、緊張になる。我慢が、「一時的なもの」ではなく「前提条件」になっている。相手の前で、自分の本音がどこかに消えてしまう。
こうした感覚が積み重なると、人は少しずつ、「関係そのもの」に疑問を持つようになる。けれど同時に、こうも思ってしまう。――関係を疑う自分が、悪いのではないか。
ここが、多くの人が立ちすくむ場所だ。関係を切ることは「悪」、距離を取ることは「逃げ」。そう思い込んでいる限り、人は自分の違和感を裏切り続ける。
この論考は、誰かを断罪するためのものではない。また、「すぐに関係を切りましょう」と勧めるものでもない。
ただ一つ、伝えたいことがある。関係は、無理につなぎ続けるものではない。そして、整えていいものだ。
次章では、「悪縁」とは何か、それを善悪ではなく、関係の状態として捉え直していく。
もし今、ここまで読んで少し胸がざわついたなら。それは、あなたの中の感覚が、すでに何かを知っている証拠かもしれない。
第二章
悪縁とは「悪い人」ではない
「悪縁」という言葉を聞くと、多くの人は、どこか身構えてしまう。誰かを悪者にする言葉。憎しみや怒りと結びついた言葉。そんな印象を持つ人も少なくないだろう。
けれど、ここで扱いたい「悪縁」は、そうした意味での悪縁ではない。はっきり言っておきたい。
悪縁とは、誰かが悪い関係ではない。
人は、善人にもなれるし、誠実な人にもなれる。それでもなお、関係がうまく噛み合わないことはある。むしろ問題なのは、人ではなく、関係の状態だ。
関係そのものが、静かに、しかし確実に歪んでいる状態。それを、ここでは「悪縁」と呼びたい。
では、関係が歪んでいるとは、どんな感覚なのだろうか。多くの場合、それは劇的なトラブルとして現れない。喧嘩があるわけでもない。暴言が飛び交うわけでもない。外から見れば、「普通の関係」に見えることも多い。
けれど、当事者の内側では、こんな感覚が少しずつ積み重なっていく。
会った後、なぜか自分が小さくなっている。その場では笑っていたはずなのに、帰り道で「もっと別の言い方があったのではないか」「余計なことを言ってしまったのではないか」と、頭の中で反省会が始まる。
説明しなくていいはずの自分を、なぜか何度も説明している。自分の考え、価値観、事情。本来なら前提として分かってもらえていいはずの部分を、毎回、言葉にし直している。
我慢が、一時的な配慮ではなく、関係を続けるための条件になっている。「今日は疲れているから」「今は余裕がないから」そう言って距離を取ることが、なぜか許されない空気がある。
沈黙が、安らぎではなく、緊張になる。何か話さなければ。何か気の利いたことを言わなければ。沈黙が続くと、関係そのものが不安定になる気がする。
そして何より、相手の前で「本音を忘れている」自分に気づく。言いたいことがないわけではない。ただ、言っても伝わらない気がする。あるいは、言った瞬間に関係が壊れそうな気がする。
こうした感覚は、一つひとつを見ると些細に思える。だからこそ、人はこう考えてしまう。
――この程度で関係を疑う自分の方が、心が狭いのではないか。
――もっと大人になれば、うまくやれるのではないか。
――どんな関係にも、我慢は必要なのではないか。
そうやって、違和感を自分の内側に押し戻す。
けれど、ここで一つだけ大切な視点がある。健全な関係において、人は「自分を縮め続ける」必要はない。
成長のための我慢と、関係を保つための自己消失は、まったく別物だ。前者は、自分の輪郭を保ったまま起きる。後者は、輪郭そのものが、少しずつ削られていく。
悪縁とは、誰かに傷つけられる関係ではない。自分が、気づかないうちに自分を削っている関係だ。
だからこそ、悪縁は分かりにくい。怒りも、憎しみもない。ただ、「なぜか疲れる」「なぜか息が浅くなる」。その感覚だけが、静かに残り続ける。
次章では、なぜ私たちはこうした関係を簡単に手放せないのか。そして、関係を断つことになぜこれほどまでの罪悪感を抱いてしまうのか。そこを、少しだけ深く掘り下げていく。
第三章
なぜ人は、悪縁を切れないのか
悪縁に気づいていながら、そこから離れられない人は多い。頭では分かっている。この関係は、少し苦しい。このまま続ければ、自分がすり減っていく気がする。それでも、なぜか手放せない。
その理由を、意志の弱さや優柔不断さに求めてしまう人もいる。けれど、それは少し違う。
多くの場合、悪縁を切れない理由は、弱さではなく、優しさにある。
相手を傷つけたくない。自分が去ることで、相手が困るのではないか。今まで積み重ねてきた時間を、無駄にしたくない。ここで関係を終わらせるのは、裏切りのような気がする。
あるいは、もっと静かな恐れ。この関係を手放したら、自分は一人になってしまうのではないか。次に、良い関係など現れないのではないか。
こうした思いは、どれも自然だ。人は関係の中で生きてきた。関係を失うことは、世界が少し狭くなる感覚を伴う。
だからこそ、人はこう考えてしまう。――多少苦しくても、関係がある方がましなのではないか。――我慢すれば済む話なら、自分が我慢すればいいのではないか。
この思考は、決して浅はかではない。むしろ、他者を思う心があるからこそ生まれる考えだ。
けれど、ここで一つ、大切な問いを置いてみたい。その我慢は、本当に相手のためになっているだろうか。
我慢が積み重なった関係は、いずれどこかで歪みを表に出す。無意識の苛立ち。言葉の端に滲む棘。説明できない距離感。
相手は、「何かおかしい」と感じながらも、理由が分からない。そして関係は、どちらにとっても居心地の悪いものになっていく。
つまり、無理に続けられた関係は、最終的に誰のためにもならない。
それでもなお、人は「切ること=悪」だと思い込んでしまう。これは、長いあいだ私たちが刷り込まれてきた価値観でもある。
縁は切るものではない。人付き合いは我慢だ。逃げるのは弱さだ。こうした言葉は、一見すると立派に聞こえる。けれど、それらはしばしば「関係を見直す自由」を人から奪ってきた。
関係を断つことと、人を否定することは、本来まったく別だ。距離を取ることと、冷たい人間になることも、同じではない。
それでも私たちは、関係を終わらせるたびに自分にこう言い聞かせてしまう。――私は、悪い人間なのではないか。
ここで、一つだけはっきりさせておきたい。悪縁を断つことは、関係を軽んじる行為ではない。むしろそれは、関係を真剣に考えた結果として生まれる選択だ。
自分を偽り続けながら関係を維持することと、互いを壊さない距離を選ぶこと。どちらが、より誠実だろうか。
次章では、この問いに対する一つの答えとして、「悪縁を断てるのは、愛のある人」という考え方を、丁寧に紐解いていく。それは、強くなるための言葉ではなく、自分を許すための言葉だ。
第四章
悪縁を断てるのは、愛のある人
「悪縁を断てるのは、愛のある人だ」。この言葉は、少し挑発的に聞こえるかもしれない。関係を断つ人は、冷たい人間なのではないか。自分の都合を優先しただけではないか。そう感じる人も、きっといるだろう。
けれど、ここで言う「愛」は、感情の高まりや、優しさの演出のことではない。もっと静かで、もっと責任を伴うものだ。
まず、はっきり区別しておきたい。愛がない人も、関係を断つことはできる。怒りに任せて。失望から。相手を切り捨てることで、自分を守るために。それは、「断つ」という行為の中でも、もっとも分かりやすい形だ。
だが、ここで語りたいのはそうした断ち方ではない。
愛のある人が断つとき、そこには相手を打ち負かす意図も、自分を正当化する声もない。ただ、静かな判断がある。
――これ以上、この関係の中にいても、互いに良くならない。
――このまま続ければ、どちらか、あるいは両方が歪んでしまう。
その判断を引き受けるのは、実はとても勇気がいる。なぜなら、愛のある人ほど、関係の重みを知っているからだ。
一緒に過ごした時間。共有した言葉。助け合った記憶。それらを簡単に切り捨てられないからこそ、迷う。それでもなお、距離を選ぶ。
それは、関係を軽んじているからではない。むしろ逆だ。関係を大切に思っているからこそ、無理な形で続けない。
愛のない断絶は、相手を否定する。愛のある断絶は、関係の限界を認める。ここには、善悪の判断はない。ただ、現実を引き受ける覚悟がある。
多くの人は、こうした断絶を「逃げ」と呼ぶ。だが、本当に逃げているのはどちらだろうか。
違和感を感じながらも、見ないふりをして関係に居続けること。それとも、痛みを伴う決断をして距離を取ること。
愛のある人は、後者を選ぶ。それは、自分のためだけではない。自分が我慢を重ねた関係は、いずれ相手にも負担を与える。無意識の苛立ち。言葉にできない距離。説明のつかない冷たさ。それらは、関係を少しずつ蝕んでいく。
だからこそ、愛のある人は知っている。無理に続けることが、必ずしも優しさではないということを。
ここで、一つ大切なことを言っておきたい。愛のある断絶は、必ずしも劇的な「別れ」ではない。
連絡の頻度を落とす。会う回数を減らす。距離を、そっと広げる。それだけで、関係は十分に変わることもある。
断つとは、すべてを遮断することではない。関係の形を変えることなのだ。
それでも、罪悪感は残るだろう。夜になって、ふと考えてしまう。――あの判断は正しかったのか。――もっと我慢できたのではないか。
そう思う人に、伝えたい。その迷いこそが、あなたが冷たい人間ではない証拠だ。愛のない人は、迷わない。愛のある人だけが、悩みながらも、それでも前に進む。
悪縁を断つとは、関係を壊すことではない。これ以上、互いを壊さないための選択だ。
次章では、善悪ではなく、「波長」という視点から、関係を見極める方法を考えていく。それは、誰かを選別するための尺度ではなく、自分を守るための感覚だ。
第五章
波長という、もう一つの見極め方
人は関係を見極めようとするとき、つい「正しさ」で考えようとしてしまう。どちらが正しいか。どちらが間違っているか。相手は誠実か、不誠実か。
もちろん、それが必要な場面もある。けれど、人間関係の多くは、善悪だけでは整理できない。そこで役に立つのが、「波長」という考え方だ。
波長とは、相手の価値観を評価するための言葉ではない。ましてや、自分が上か下かを決める尺度でもない。もっと身体的で、もっと静かな感覚だ。
たとえば、波長が合う関係には、こんな特徴がある。
無理にテンポを合わせなくていい。沈黙が、気まずくない。意見が違っても、自分が消えない。疲れているときほど、自然体でいられる。
ここには、努力がないわけではない。ただ、努力が「演技」にならない。呼吸を合わせる必要がなく、気づけば同じ呼吸になっている。
一方で、波長が合わない関係には、別のサインがある。
正解を出し続けないといけない。常に何かの役割を演じている感覚がある。会う前から、少しだけ憂鬱になる。別れたあと、どっと疲れが出る。
これらは、相手が悪いから起きるのではない。自分が未熟だからでもない。ただ、波長がずれているだけだ。
大切なのは、ここで無理に理由を探さないこと。「なぜ合わないのか」「どちらが悪いのか」。そう問い始めると、人はまた自分を責めてしまう。
波長は、頭で理解するものではない。身体が先に知っている。会ったあとの感覚。話しているときの呼吸。沈黙の質。それらは、言葉よりも正直だ。
それでも私たちは、この感覚を無視してきた。社会性。礼儀。大人としての振る舞い。そうしたものを優先するあまり、自分の身体の声を後回しにしてきた。
けれど、波長を無視した関係は、長くは続かない。続いたとしても、どこかで無理が出る。
だからこそ、波長という視点は、誰かを排除するためではなく、自分を守るために使っていい。
波長が合わないと感じたなら、無理に合わせなくていい。理解し合えなくてもいい。尊重し合えなくても、距離を取ることはできる。それは、関係を壊すことではない。関係を適切な距離に戻すことだ。
次章では、こうして整えられた関係の先に自然と現れてくるもの――良縁について、考えていく。探しても見つからなかったものが、なぜ、ふとした瞬間に「見えてくる」のか。その理由を、静かに言葉にしてみたい。
第六章
良縁は、探すものではなく、見えてくる
人はよく、「良い人間関係を築きたい」「良縁に恵まれたい」と言う。その言葉自体は、とても自然だ。孤独になりたい人など、ほとんどいない。
だから私たちは、良縁を「探そう」とする。人が集まる場所に行き、つながりを増やし、紹介を受け、関係を広げようとする。
けれど、不思議なことに――そうして必死に探しているときほど、本当にしっくりくる関係には出会えない。なぜだろうか。
その理由は、良縁が「外にあるもの」ではないからだ。良縁は、探しに行って手に入れるものではない。関係を整えたあとに、はじめて見えるものなのだ。
思い出してみてほしい。これまでの人生で、「この人とは自然だな」「なぜか無理がないな」と感じた関係は、たいていの場合、必死に探して見つけたものではなかったはずだ。
むしろ、気づいたら隣にいた。いつの間にか話すようになっていた。特別なことをしなくても、関係が続いていた。そんな感覚ではなかっただろうか。
これは偶然ではない。悪縁の中にいるとき、人の輪郭は歪む。本音を抑え、役割を演じ、自分を小さくする。その状態では、本当に合う人がいても、見えない。あるいは、見えていても「自分にはふさわしくない」と遠ざけてしまう。
けれど、関係を整え、不要な我慢を手放し、自分の輪郭が戻ると――世界の見え方が変わる。無理のない関係が、自然と浮かび上がってくる。
それは新しい出会いかもしれないし、ずっとそばにいた人かもしれない。このとき、人はこう感じる。
――あれ? 最初から、ここにあったのではないか。
この「最初からそこにあった」感覚。それこそが、良縁の正体だ。
良縁は、ドラマチックに始まらない。特別な演出も、強い引力もない。ただ、呼吸が合う。沈黙が楽。自分でいられる。それだけだ。
だからこそ、大切なのは順番だ。良縁を探す前に、関係を整える。
関係を整えるとは、すべてを断ち切ることではない。また、誰とも関わらないことでもない。自分をすり減らす関係から、静かに距離を取る。波長の合わない場所に、無理に居続けない。
その余白が生まれたとき、良縁は、はじめて姿を現す。
最後に、この論考の結論をもう一度、言葉にしておきたい。
関係は、つなぐものではない。整えるものだ。
全部を抱える必要はない。でも、全部を断つ必要もない。あなたが深く呼吸できる関係を、大切にしていい。そして、そうした関係を選び取ることは、冷たさではなく、成熟だ。
良縁は、探した先にあるのではない。
整えた先で、静かに見えてくる。
もし今、あなたの人間関係が少し息苦しいのだとしたら。それは、あなたが間違っているからではない。ただ、整える時期に来ているだけだ。
そのことを、どうか忘れないでほしい。