『父性愛の時代』
北川 仁美
【まえがき】
私たちはいつのまにか「母性」に偏った社会で生きているのかもしれない。
子育て、愛情、共感、やさしさ――それらが母という存在と強く結びつけられ、「父」はどこか傍観者のような立場を与えられてきた。
だが、いま静かに、確かに「父性愛」が再評価されつつある。
本稿では、過去・現在・未来を通して「父性愛」という概念を多角的に捉え直し、これからの社会におけるその意味を考察していきたい。
【総論】
父性愛とは何か
「父性愛」と聞いて、どんなイメージが浮かぶだろうか。
厳しさ、威厳、頼りがい――あるいは時に、不器用で距離のある愛情。
「母性」がしばしば無条件の受容や包み込むような愛情と結びつけられるのに対し、「父性」は対照的に語られることが多い。だが、果たしてそれは本質を捉えているだろうか。
父性愛とは、単なる「母性の補完物」ではない。
むしろそれは、社会のなかで子が自立していくための「方向性」や「指針」を与える力なのではないか。子どもにとっての“外の世界”との接点をつくり、境界線を教え、自分で立ち上がる術を身につけさせる。それが父性の役割であり、そこに宿る愛こそが「父性愛」だ。
もちろん、父であることと父性を持つことはイコールではない。
生物学的な父親でなくても、父性的な愛を示す人はいる。反対に、父親であってもそのような関わりが薄い場合もある。つまり、「父性愛」とは血縁や性別を超えた、“子の成長を見守りながらも、ひとりの存在として社会に送り出す”ための精神的構えだと言える。
興味深いのは、この父性愛が近年、改めて注目されている点である。
背景には、家庭や社会の構造の変化、そして「母性神話」への懐疑がある。かつては育児や情緒的なケアは「母親の役割」とされてきたが、現代ではその固定観念が揺らぎ、多様な家族像が認められるようになった。そのなかで、父性が再発見されているのである。
また、父性愛には「関わらない自由」はない。
距離をとっているように見えても、子どもは父の言葉や態度を見ているし、背中から多くを学ぶ。時に語らずとも、そこに存在すること自体が、子にとっての指針となる。
逆に言えば、「父性愛」とは、沈黙や不器用さのなかにさえ、確かに立ち上る関わりの形なのだ。
現代は、感情を言語化することが重視される時代である。
そんななかで「父性愛」という言葉が、再び言語として取り出され、議論される意義は大きい。それは、感情と理性、やさしさと厳しさ、自立と保護といった一見相反する価値の間を行き来しながら、子どもと関わっていくための新しい指針となりうる。
父性愛とは、内に熱を秘めた「静かな情熱」かもしれない。
見返りを求めず、ただ“子が自分の足で立てるように”という願いだけを胸に、今日も働き、祈る。その姿のなかに、私たちは改めて「愛」の多様なかたちを見ることになる。
【過去】
歴史に見る父性愛
私たちが「父性愛」という言葉に抱くイメージは、実は歴史的に形成されたものであり、不変のものではない。
時代や文化によって、父が子どもとどう関わるか、またその関わりを「愛」としてどう認識するかは大きく異なってきた。
古代の社会において、父親は主に“家の統治者”としての役割を担っていた。
たとえば古代ローマの「家父長制」では、父は家族全体に対して絶対的な権限を持ち、子どもに対しても命を左右するような力を持っていた。そこに現代的な「愛」は存在しないようにも思えるが、秩序や継承、名誉を守るという価値観のなかで、父は子に人生を託し、守っていたともいえる。
日本に目を向ければ、儒教的価値観の影響が色濃い江戸時代などでは、父は「家の名を守る者」として、厳格な道徳的権威を子に示していた。
父の言葉には重みがあり、背中で語るという価値観があった。それは「父性愛」というよりも「父性規範」と言うほうが近いかもしれない。だが、そこにはたしかに「子の将来を思う気持ち」が通底していた。
近代以降、産業革命や経済成長を経て、「稼ぐ父」と「家庭を守る母」という役割分担が生まれた。
この時期の父性愛は、経済的支えとしての側面が強く、家庭内での情緒的な関わりはやや希薄になっていったともいえる。「お父さんは忙しいから」と言われることが、ある種の愛情の代替であった時代だ。
だが、同時に「黙って働く」ことが、父なりの愛の表現でもあった。
言葉にしないこと、不器用であることがむしろ“男らしさ”として尊ばれ、そうした文化の中で、父性愛は常に“見えにくい愛”として存在してきたのだ。
一方で、近代文学や映像文化の中には、そうした父性愛を繊細に描いた作品もある。
たとえば太宰治の『父』や、映画『東京物語』に見る父の姿には、時代の中で揺れ動く父親像が丁寧に刻まれている。
そこにあるのは、支配ではなく「うまく愛せないことへのもどかしさ」だ。
こうして歴史を振り返ると、父性愛は決して“固定された概念”ではなく、社会構造や価値観の影響を受けて変容してきたことがわかる。
それでも常に共通しているのは、「子どもを未来へ送り出したい」という願いだ。その方法や表現が変わったとしても、父性愛は社会のかたちと共に、しなやかに形を変えながら存在してきた。
【現在】
母性愛は愛ではない
この一文を目にして、ドキリとした人もいるかもしれない。
「母性愛は愛ではない」――あまりに挑発的で、極端な言い回しのように見える。だが、ここで言いたいのは「母親が子どもを愛していない」という意味ではない。
むしろ逆である。「母性愛」という概念が、私たちの社会のなかであまりにも神聖視されすぎていて、それゆえに“実際の愛”から乖離してしまっているのではないか、という問いかけである。
私たちは「母は無償の愛を与える存在である」という前提に縛られてきた。
母親は、どんなに疲れていても、子どもを優しく抱きしめ、どこまでも受け入れ、すべてを許す――そんな理想像が刷り込まれている。
それは確かに美しい。しかし、その理想は往々にして母親自身を追い詰め、子育てを“善意の暴力”に変えてしまうこともある。
「母性=愛」という公式は、本当に普遍的なのか。
母親もひとりの人間であり、感情があり、限界がある。にもかかわらず、「母親なのにそんなことを思うなんて」といった圧力によって、個人としての声が押し殺されてきた歴史がある。
そこには、社会によってつくられた“母性愛の型”がある。
さらに言えば、「母性愛」という言葉には“子どもにとって無条件に心地よいもの”という前提がつきまとう。だが、実際にはどうだろうか。
時に、母の過干渉や支配欲が、子どもの自立を妨げ、逆に精神的な重荷になることすらある。
つまり、「母性愛」は常に“愛”として機能しているとは限らない。むしろ、「愛」の名のもとにコントロールが行われる危うさもある。
だからこそ、いま必要なのは「母性愛神話」からの脱却だ。
母性にも父性にも、それぞれの“愛のかたち”があり、そのいずれもが絶対ではないことを認め合うこと。
母親も完璧ではないし、完璧である必要もない。そして、子育てにおいて母性愛だけが“愛”の中心に据えられるべきでもない。
ここで見えてくるのが、父性愛の重要性だ。
母性愛が「包み込む」愛だとすれば、父性愛は「突き放す」愛かもしれない。
もちろん単純な二項対立ではないが、異なる愛のかたちが存在することで、子どもは複眼的に世界を見る力を育む。どちらか一方ではなく、両者のあいだを行き来するなかで、子どもは「愛とは何か」を学んでいく。
“愛”とは、常に問い直されるべきものである。
そしていま、神話化された母性愛の陰で見えにくくなっていた父性愛が、静かに、しかし確かな存在感を取り戻しつつある。
マザコン vs ファザコン
「マザコン」という言葉は、世間でずいぶんと定着してしまっている。
“マザー・コンプレックス”――つまり、母親への依存や執着が強すぎる状態を揶揄する言葉だ。テレビやネットでは「マザコン男」が恋愛や結婚生活に悪影響を及ぼす存在として、しばしば滑稽に描かれる。
一方で、「ファザコン」という言葉には、どうだろう。
一般的には、娘が父親に対して特別な愛着を持つ状態を指す。けれど、そのニュアンスは「マザコン」と比べてずっと曖昧で、軽い。
「パパっ子だね」といった微笑ましい評価で済まされることが多く、社会的な批判の矛先はさほど向けられない。
この非対称性は、私たちが“母”と“父”の役割をどう見てきたかを映し出している。
母は「愛されること」「尽くされること」が当然とされ、父は「敬われること」「距離を保たれること」が求められてきた。
その背景には、「母との一体感は甘え」「父との距離感は正常」という、根深い無意識の価値観がある。
だが実際には、母への過度な依存も、父への過剰な理想化も、いずれも健全な自立を阻む可能性をはらんでいる。
親への愛着そのものは悪ではない。問題なのは、その愛着が“関係性の成熟”へと昇華されず、親子のあいだに“未分化な情緒”として居座ってしまうことにある。
マザコンとファザコン、どちらが“良い”か“悪い”かという話ではない。
むしろ、私たちはこうした言葉を借りて、「愛着と支配」「甘えと依存」「憧れと理想化」といった感情のグラデーションを、もっと丁寧に見つめ直す必要があるのではないか。
そしてここにもまた、「父性愛」の役割が浮かび上がる。
成熟した父性愛は、子どもに対して“自分から離れていくこと”を肯定的に受け入れる力を持っている。
「もう一人でやれるな」と手を放し、「もし転んだら戻っておいで」と背中を押すことができる。
その姿勢は、子どもの内面に「他者と距離をとる力」「自己を分化させる力」として刻まれていく。
マザコン的な甘えが社会でしばしば問題化するのは、たぶんその裏に“放す父”の不在があるからだ。
逆に言えば、ファザコン的な理想化の影に、自己を差し出さない母の不在があるのかもしれない。
親子の関係において、愛と距離、依存と自立のあいだには、いつも繊細な綱引きがある。
その力学を、誰かを笑い飛ばすためではなく、関係の成熟に向けたヒントとして見つめ直すこと。
それが、「父性愛の時代」を考えるうえで、欠かせない視点なのではないだろうか。
父性愛保育のビジネスモデル
これまで「保育」といえば、母性的な関わりを中心としたケアの領域と捉えられてきた。
やさしさ、共感、包容力、気づき――それらは確かに、保育にとって欠かせない資質である。
しかし、そこに「父性愛的視点」が加わるとき、保育という営みはより広がりを持ち、社会の中で新たな価値を発揮することになる。
父性愛的保育とは、子どもを“守る”のではなく、“育てる”ことに主眼を置く関わりだ。
子どもの可能性を信じ、ある程度の挑戦を許し、失敗も含めて自分で経験させる。
すぐに手を出さず、言葉で導き、時に突き放す。そのプロセスこそが、子どもの自己形成を後押しする。
言い換えれば、父性愛保育は「手を貸す保育」ではなく「手を引く保育」だ。
この視点は、現在の保育業界が直面する構造的課題に対しても、新しい答えを与える可能性がある。
たとえば、保育士の離職率の高さは、過剰な共感・感情労働への疲弊と無関係ではない。
四六時中“やさしい存在”でいなければならないという期待は、保育士の内面に大きな負担を与える。
そこに、「距離をとって見守る」「子どもを信じて手を出さない」という父性的関わりのスタイルを導入することで、ケアの過重負担が緩和され、保育者の精神的な持続可能性も高まるかもしれない。
また、保育施設の運営においても、“父性愛”の観点は差別化要素になり得る。
従来の「安心・安全・やさしさ」だけでなく、「主体性」「チャレンジ」「社会性の発達」などを前面に出したプログラムは、現代の子育て層に新しい選択肢を提示できる。
特に、共働き家庭が増える中で「親として我が子に何を与えたいか」を真剣に考える親にとって、“父性愛保育”は非常に魅力的なキーワードとなるだろう。
さらに興味深いのは、こうした保育のスタイルを、実際には多くの**女性保育士**が担っているという事実だ。
父性愛は、性別ではなく“態度”である。
「挑戦を応援する」「甘えを突き放す」「結果より過程を見る」――こうした関わり方は、女性であっても十分に実践可能であり、すでに多くの現場で行われている。
だが、私たちはそれを“母性のなかの変化”として捉えがちで、それが“父性的アプローチ”であることに、なかなか名前を与えてこなかった。
いま、保育の世界にこそ「父性愛」が必要だ。
それは「母性か父性か」という二者択一ではなく、多様な愛のあり方を統合し、重層的なケアを実現するという試みである。
父性愛保育は、保育のあり方を変えるだけでなく、社会が“子どもをどう育てるか”という根本的な問いに、新たな風を吹き込む力を持っている。
【未来】
これからの社会でなぜ父性愛が大切なのか
私たちはいま、かつてないほど「不確実性の時代」を生きている。
終身雇用は崩れ、AIやグローバル化の波が日常の仕事や人間関係にまで変化をもたらし、正解のない問いに向き合いながら生きていかねばならない社会。
そんな中で求められるのは、「誰かに従う」ことではなく、「自分で考え、選び、責任を持つ」姿勢である。
このような時代に、父性愛が果たす役割はきわめて大きい。
なぜなら父性愛は、「子どもを正解に導く愛」ではなく、「子どもが自分の答えを見つけられるように支える愛」だからだ。
それは、教える愛ではなく、信じる愛。制御ではなく、見守り。保護ではなく、自由。
つまり、父性愛とは“子どもが他者として立ち上がっていく”過程を尊重する愛のかたちなのだ。
これまでの社会では、順応性や協調性が美徳とされてきた。
だがこれからの社会では、自分の価値観を持ち、それを根拠に判断を下す力こそが求められる。
そのためには、「違っていていい」「間違えてもいい」「やってみればいい」と背中を押してくれる存在――つまり父性愛的な関わりが、子どもの内面に“自立の核”を育てる。
また、ジェンダーや家族のあり方が多様化する社会において、「父性愛」は性別に限定されない愛のスタイルとして再定義されつつある。
かつて“父”と“母”に分けられていた役割は、今や混ざり合い、重なり、交代可能なものとなってきた。
父性愛は、その象徴的な資質として、あらゆる大人の中に再配置されていくことができる。
それは、血縁の有無を超え、保育士、教師、祖父母、あるいは地域の誰か――すべての“育てる大人”が担い得る愛である。
社会の変化が進めば進むほど、人は“軸”を必要とする。
その軸は、指示や命令ではなく、「信じてもらった記憶」から生まれる。
“あなたなら、やれる。”
この静かな励ましを、言葉にするか、沈黙で示すか、それは関係ない。
大切なのは、“見守られている”という実感だ。
父性愛とは、未来への信頼のかたちである。
子どもを未来へ送り出すとき、私たちは自分自身の不安や恐れを引き受けながらも、「この子の人生を、この子自身に任せる」という決意を抱く。
それは、言い換えれば「信じて手を放す」こと。
その行為の中に、いまの社会がもっとも必要としている愛が宿っているのではないか。
【まとめ】
「父性愛」という言葉は、これまで長いあいだ、語られにくいものだった。
それは母性愛に比べて“見えにくく”、言葉になりにくく、時に不器用で、時に誤解されがちな愛だった。
けれど、だからこそ――いま、あえてこの言葉に光を当て直すことに、大きな意味がある。
父性愛とは、「手放すこと」を通して育まれる愛である。
子どもを信じて見守ること。必要以上に介入せず、成長の機会を奪わず、失敗さえも子ども自身の経験として尊重すること。
そこには“目に見える優しさ”は少ないかもしれない。だが、“深い信頼”がある。
この父性愛は、決して「父親」という存在だけに限られたものではない。
性別を問わず、血縁を問わず、すべての育てる人が、父性愛の担い手になれる。
それは新しい時代の子育て、新しい保育のあり方、そして新しい人間関係のモデルとなっていく。
母性愛と父性愛は、対立するものではない。
どちらが優れているかを競うものでもない。
大切なのは、その“違い”を理解し、認め合い、必要に応じて行き来しながら子どもと関わる柔軟さを持つことだ。
そうした多様で立体的な愛の中でこそ、子どもは“自分自身”として育っていくことができる。
「父性愛の時代」とは、父親の復権ではない。
それは、あらゆる関係において“信じて見守る”というスタイルが見直される時代であり、人間関係のなかに新しい風を吹き込む視点である。
そしてそれは、子どもに向けられたものにとどまらない。
わたしたち大人同士もまた、互いを信じ、支配せず、自由を尊重しあう父性的な関係性を築くことができるはずだ。
その先にこそ、社会全体が成熟していく未来がある。
子どもを信じるということは、未来を信じるということだ。
「父性愛の時代」は、まさに“未来への信頼”から始まっていく。
2013年に札幌市で一般社団法人アイエムアイを創業した女性起業家・保育士。「保育士が安心して幸せに働ける場所をつくる」という強い信念を抱き、保育園「キッズルームなるなるの木」を運営中。また、面会交流サポート事業を通じて親子間の絆を支え、「父性・母性調和型保育」を理念として掲げる。地域とのつながりを重視し、未来を見据えた保育と社会貢献の道を歩み続けている。
【ポイント解説】
文中で語られている「手を引く保育」とは何ですか?
「手を引く保育」とは、北川が提唱する「父性・母性調和型保育」の理念において、子どもを「守る」ことよりも「育てる」ことを重視する関わり方を指します。これは、子どもが自立し、社会の中で自身の力で生きていくための「方向性」や「指針」を与えるための愛の形であると説明されています。
具体的には、以下の特徴が挙げられます。
自立の促進
子どもの可能性を信じ、ある程度の挑戦を許容し、失敗をも含めて自分で経験させることで、自己形成を促します。
「突き放す」愛
すぐに手を出して解決するのではなく、言葉で導き、時には「突き放す」ことで、子どもが自ら立ち上がる術を身につけさせます。これは、子が親から離れて自立していくことを肯定的に受け入れ、「もう一人でやれるな」と手を放し、「もし転んだら戻っておいで」と背中を押す姿勢です。
見守る姿勢と信頼
「教える愛」ではなく「信じる愛」、過剰な制御ではなく「見守り」、過保護な保護ではなく「自由」を尊重します。そこには目に見える優しさは少ないかもしれませんが、子どもへの深い信頼が根底にあります。
父性的要素の重視
道徳、秩序、ルール、冒険心(挑戦)といった父性的な要素を大切にし、子どもが社会に出て困難に直面した際にも、「辛いことがあっても、涙を流しながらでも、立ち向かおうとする気持ち」を育むことを目指します。
自己認識と問題解決能力
子どもの内面に、他者と適切な距離をとる力や自己を分化させる力を育みます。また、感情を音楽などで表現する多様な方法を教えることで、内面的な深みを育むことも含まれます。
養育者の持続可能性
保育士が「四六時中“やさしい存在”でいなければならない」という過重な期待からくる疲弊を軽減し、精神的な持続可能性を高める効果も期待されます。
性別を超えた態度
「父性愛」は性別や血縁の有無に限定されるものではなく、保育士の「態度」として女性保育士によっても十分に実践可能であり、多くの現場で既に行われているとされています。
北川自身も、自身の生い立ちから「父性愛」の重要性を深く認識しており、アイエムアイの経営においても「自分の信じる保育」を追求し、スタッフの個性や自発的な行動を尊重する姿勢は、この「手を引く保育」の理念と通底しています。子どもや保護者、そして保育士自身が「自由」を謳歌し、自立して幸せに生きられる社会の実現を目指しているのです。
例えば、面会交流サポートにおいては、子どもの意思を尊重し、「辛いなら会うのやめたらいいしょ」と弁護士が提案したことで、子どもが自ら面会を再開した事例が「父性」という勇気の表れとして語られています。また、保育者が子どもが「ママから離れると泣いていた」状態から「ステージで自信に満ちた笑顔を見せる」ようになるまで、長期的な成長を見守ることも「手を引く保育」の成果と見なされています。
※その他、インフォグラフィックによる父性の時代解説ページはこちらになります。